この日は約1ヶ月ぶりな演奏会。
「トウサイ」な図形の元に,結構ヘビーなプログラム。
Cb的な音楽的エネルギーの消費も非常に激しい曲。
Cbな,ブンッ♪,を合わせる部分も相当数であった。
合えばとても気持ちの良い音場が発生するし,オケ内での核心的時間を作り出すこともできる。それが成功すれば,極めつけの達成感を一瞬味わえるのが,Cbの極上の幸せなのである。
マイ体調は,かなり最悪。
田舎からもらってきたと思われる,風邪。
ちょっとした気管支炎に発展しているもようだ。
耳も聞こえにくい。
それでも音楽的シックスセンスは,不思議と澄まされる。おいら的には,沢山の部分でTOPさまに演奏的に添えて,援護できたかなぁと,いつもの密かな楽しみを味わう。フォーロースルーも,テークバックも,図形からの転写が,思いの外上手く出来たかも。咳による50%の集中力欠如は,むしろ残りの集中をフル回転というコトだろうか。
とはいえ,大事な(それが大事とは思えないのだろう)ブンッ♪を,自分時間でしか鳴らせない輩との列びに,残念な思い。
まぁぁしかたあるまし。
楽器も違うし。奏法も違うし。
音楽的価値観や人生観も異なるようだし。
音楽は,人の成り立ちの縮図である。
人となりは違うが,音楽では同じ場所・場面に立つコトによって,これまでにない・経験無い価値が生まれたりするモノだが。
なにもかも中途半端だと,一致点は乏しい。。。。
Cbでの技術的な問題は,やはりテークバックでの,図形・周囲からの音楽のくみ取りだろう。マイプルトのアウトサイドでも,構え出だしに悩んでいるようだったし(単純に数えの迷いかもしれないが)。にしてもインサイドから,音楽的核心のタイミングもらうようでは,だめだよ。
プルト内は比較的濃密にフォローし合えるから良しとして。それ以外はこころの精進だなぁ〜。 まぁ,全く視界にも入らない,いやむしろ無視しようとする・避けるよりは,プルトの悩みの方がましで,大切なのだ。さてはてVcはというと,,,Cbよりも自然体姿勢なのだから,より合わせやすいはずだが。。。
いずれにしても,生き方においておのれの非(井の中のかわずな『思い』)を認められないことは,音楽的な謙虚さ,つまり音楽的には当たり前なこと,相手に自然に合わせる・相手を認めることの欠如につながるのだと再確認した。ムダな時間(より良い音楽共感を得るための,別のアプローチ)を過ごしたものだぁ〜と,自分の時間の浪費の愚かさも思い知ったりする。
とはいえ,たとえパートは違ったとしても,合わせること・合わせようとする事を自ら失って・諦めては,同じ音楽土俵(一緒に弾いている)に居るのに本末転倒なので,気づくまで合わせようとする事,音楽的インセンティブを与え続けることが必要だ。これまた忍耐の精進であるが,,忍耐という無駄なエネルギー消費は,ただの消費であって必ずしもより良い音楽への転換にはならないという矛盾にぶつかる。
「イイ弓や楽器が最も良い先生」,の説通り,,無理して何とかしている常態は,それ自体がマイナス。楽に弾けて,自然に楽しく・ハッピーになるという好循環。これと同時に瞬時に音楽的に厳しくなる。 そんなハッピーと新たなブレイクスルーが同居する音場を求めて,再びもとめさすらうという切替タイミングも必要になってくる。音楽的なマンネリは,外的要因で生じてくるものだ。音楽は,「気持ち」や「思い」ではなく,出た音が全てな厳しい芸術,,解説や説明やことばでの共感を得る作業は,ただの「言い訳」となってしまう厳しさがあるのだ。
音楽・楽器演奏は,おのれの鏡だ。
醜く映っていない自分をいつも想像したい。
マイマスターの教えでもある。
☆こんな音楽的善意を伝道したい,な〜んてこと自体が,能力の範囲を超えてるってコトを思い知る。伝わる・えるコトも,大いなる才能で,おいらには無い。